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童謡『赤とんぼ』は賛美歌だった♪

童謡♪赤とんぼ♪はイエスキリストと母聖マリアへの賛美歌だった!

 

♪♪赤とんぼ♪♪

歌:童謡・唱
作詞:三木 露風
作曲:山田耕筰

夕焼小焼の、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か

山の畑の、くわの実を
小籠こかごに摘んだは、まぼろしか

十五でねえやは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿さおの先

 

こんにちは、塩ノ山の三枝クララです。
皆様、いかがお過ごしですか?

私は、聖書の御言葉を歌にして世界に届けるというミッションがあるので、今年の9月から音楽の勉強を基礎から学び始めましたが、

そんな中で、赤とんぼという童謡に改めて出会って歌詞と切ないメロディに触れていると、

「もしかして赤とんぼという曲は、イエス・キリストと母聖マリアへの賛美歌ではないか!?」

と考えるようになり、作詞家の三木露風について調べてみると、やっぱり、バリバリのカトリックのクリスチャンでした。

1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に生まれましたが、5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられて育てられました。

赤とんぼの歌詞の♪十五でねえやは、嫁に行きお里のたよりも絶えはてた♪は、
幼くして生き別れになった露風の子守役の奉公人のねえやで、そのねえやが、貧困ゆえだと思うのですが、口減らしのため15歳で嫁にいったため、このねえやとよぶ奉公人から聞いていた母の消息が途絶えてしまったという事のようです。

とても短い歌詞ですが、せつなさが胸にせまってきます。

詩については、早熟の天才と呼ばれていて、小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していて、17歳で処女詩集『夏姫』を、20歳で代表作『廃園』を出版し、北原白秋とともに注目されたという事です。

龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)で一年学んだ後、中退して上京。早稲田大学および慶應義塾大学で学びました。

1918年(大正7年)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛ける。1921年(大正10年)には童謡集『真珠島』を出版した。本書に収録された童謡「赤とんぼ」は、山田耕筰によって作曲され、現代でも広く知られています。

1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院で文学講師を務め、その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになり、洗礼名はパウロ。

キリスト教の信仰に基づく詩集のほか、『日本カトリック教史』や随筆『修道院生活』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与されています。

日本で最も人気のある童謡赤とんぼは、クリスチャンどころではない!聖騎士が作詞してたなんて驚きです!

そんな、三木露風は、この赤とんぼという詩の中で、自分の生い立ちや人生の中に、聖書の中の神に愛されている自分を重ねていたのではないかと思います。

それでは、三木露風が童謡赤とんぼに聖書の思いを託していたと私クララが思う事についてお話したいと思います。

夕焼小焼の、赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か

イエス・キリストが十字架を背負い処刑されたのはこんな夕方の日でした。

山の畑の、くわの実を、小籠こかごに摘んだは、まぼろしか

イエス・キリストが貧しい人たちに祝福の食べ物を籠いっぱいに食べさせて下さった、あれは遠い過去の幻だったのだろうか

十五でねえやは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた

でも、聖マリアは母に会えない幼く寂しい時も、そして今も、いつも私の寄り添って下さっている。

夕焼小焼の、赤とんぼとまっているよ、竿さおの先

その聖マリアが見上げる十字架の先には、イエス・キリストがいつもいて、私たちを見つめている。

 

以上ですが、竿という言葉は、旧約聖書にはたくさん出てきますが、私は十字架の事だと思います。

 

今日は、童謡赤とんぼにおける私クララの聖書的解釈を紹介させて頂きましたが、

私はスピリチュアル系の人たちが語るわけわからない、カタカナをいっぱい並べた世界感が大っ嫌いで、イエス・キリストの愛って、この童謡の赤とんぼのようにいつもさりげなく、私たちにそっと普通の生活の中に寄り添って下さるものではないかと思います。

今日は、それを言いたくてこの記事をUPしました。

それにしても、童謡赤とんぼが心に染みる日本人は、どんだけ真の神の子、生まれながらにしてのクリスチャンなのかと思います。

それでは今日はこのへんで。
今日もありがとうございました。
またね、バイバイ!

 

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