こんにちは(^^)♪
世界最古のピラミッド!
塩の山の《預言者》三枝クララです。
ビートたけしと『イエス』
プライベートのラインまで世間にさらされ、バッシングを受ける芸能人を見て、ビートたけしは、聖書の御言葉を引用してこう言いました。
「聖書に『自分に罪を犯したことのない者が、まず、この女(罪の女)に石を投げなさい。』と書いてある。」
私の持論は、「日本人は、自分が意識しなくても生まれながらにしてクリスチャン」というものですが、ビートたけしは、洗礼を受けたクリスチャンではないと思いますが、相当、頭も良く、勉強もされている方だとこの発言を知って感銘を受けました。
ご自身も人気度に比例して受ける、マスコミの攻撃を身を持って知っている方ですし、人の心の痛みがわかる方でなければ出来ない発言です。
罪の女と『イエス』
このビートたけしが引用した罪の女とは、新約聖書の中のこんなお話です。
イエスを妬んで陥れようと企んでいた、ファリサイ派の人たちが、姦通の現行犯で捕らえられたを女をイエスの前に引きずりだしてきました。当時、姦通の罪は、伝統的な律法により、石打によって処刑されることになっていました。
もし、イエスが、律法通りにこの女を殺したとしても、また、律法を無視して、イエスがこの女をかばったとしてもどちらにしてもファリサイ派の人たちにとって、この出来事は好都合な出来事で イエスの言葉を待って、彼らはワクワクと手にもう投げんばかりに小石を握っていました。
その時、イエスは少しの間、地面にしゃがんでブツブツ言いながら何か文字を書いていましたが、ふと、立ち上がってこう言いました。
『自分に罪を犯したことのない者が、まず、この女(罪の女)に石を投げなさい。』
すると、一人、また一人と、手に握りしめていた小石をてから落とし、とうとう女とイエスだけがそこに残り、
『わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今からもう罪をおかしてはいけません。』
自分にあてる物差し、他人にあてる物差し
私たちに正義の心があるのならば、この正義を計る物差しは、一つでなければなりません。しかし、私たちは、いくつもの物差しを使い分けています。
たとえば、お金の貸し借りでも同じ金額のはずなのに 貸した側と借りた側では、金額の重みが違います。
たとえば、もし同等の罪を犯した時、私たちは心の中で 他人の罪は一生許さないのに 自分の罪は「だって人間だもの」と緩く緩く苦笑いで済ませたりします。
このように私たちは、無意識のうちに複数の物差しを好都合に使い分けています。ならば、一つの物差しへと統合すれば良いのでしょうか。
いえいえ、どんな物差しだろうが、それは自分のエゴから出たもの。
私たちを計ることが出来るお方は、この宇宙の創造主でおられる神だけです。
◆God bless you!
あなたは、他人の労苦の結果を神を超えて評価したり、
自分を高く評価する人だけを大切に扱っていませんか。 (コリント②10Clara訳)
それでは、またお会いしましょう。
今日も鏡を見たら笑ってね(^^)(^^)♪
アーメン!ハレルヤ!
・・・塩の山の預言者 三枝クララ